「サウロの回心」(2025年10月)

使徒言行録9章節1~9節

  本日の説教題に関してですが、皆様の中にはサウロが主イエスを信じるようになってからパウロという名前に変わったと思っている方もおられるかもしれません。しかし「サウロ」はヘブル語の名前で、「パウロ」はギリシャ語の名前ですので、途中で名前が変わったわけではありません。また、漢字の「回心」(回転の回)ですが、神に背いていたことを認め神に立ちかえる、方向転換することをキリスト教では指しています。

さて、サウロはもともと熱心なファリサイ派のユダヤ教徒であり、「主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで」迫害していた人物でした。大祭司から許可を得てダマスコの信徒を捕らえようと向かう途中、天からの光に照らされ、地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と主イエスの声を聞きました。彼が「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と答えがあり、さらに「町に入れ。そこでなすべきことが告げられる」と命じられました。この時、サウロは目が見えなくなり、自らの力や判断に頼れなくなったのです。これは神の前に砕かれ、考える時間を与えられたことを示しています。

私自身も、かつて自分の「よかれ」と思う行為が他者からの批判を招いた経験があります。サウロのように自らの思い込みや正義感で行動しても、それは周囲の人たちや神様の思いと全く異なり、かえって人を傷つけてしまうこともあります。私たちも自分の考えていた正義やまっとうな理屈が崩れ去り、自分の力では無理、と心砕かれ、主イエスの生涯と十字架と復活による罪の赦しの恵み、それはまさに自分のためにあったことを心の眼でみることが大切です。

神との出会いの形は人それぞれですが、いずれにせよ、主イエスとの出会いを通して、自分の正しさに固執する生き方から解放され、神に方向転換して、神の恵みによって新しく生かされていくのです。サウロの回心の出来事は、すべての人にとって信仰の出発点の象徴であり、試練や挫折を含め、人生の中で神様を求めるとき、同じような回心が現代の私たちにも起こりうることを示しているのです。